命の息 と施術の概念
創世記二章7節
主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった。
触れずに治療が可能であろうか?
生命力はどこからくるのでしょうか?
鹿児島の友人は触らずに治療を行っていました。元々心臓が悪く体を動かすと心臓に負担がかかるため出来るだけ、負担がかからない方法を探すうちに触らなくなったと語ってくれました。
それで、私も施術を受けてみますと、右の背骨の横のラインに一つの通り道ができるのです。
背の膀胱経絡のラインです。
以前、膀胱経絡が弱り、ギックリ腰になったのです。その時は横倒れを起こしていました。それは右です。それで一年半びっこを引いて歩くことになったのです。
施術を仕事にするとは思ってもいませんでしたが、キッカケがギックリ腰です。
友人にどうしているのですかとお聞きすると、私の代わりに体に謝っているというのです。
謝っている。申し訳なかったと。
友人は私の体を私以上に思い謝ってくれたのだと思います。
自分の体は気遣いません。
頂いた命とはよくいいます。
頂いた体なので大切に管理しないといけないのです。
体を良く理解できた時は病気がどのライン入っているかがわかります。
相手をよく理解するとはよく観察したり、話を聞いたりします。その人に関心があるときそうなります。
関心があるとは愛することだと思います。
体を理解した分だけ施術も上手くいくのだと思っています。
彼はこの道を開拓していくのだなとその時おもいました。
私自身は実体の体に触れて治療したいと思っています。
呼吸という観点から筋肉の動きを整理していくと、筋肉と呼吸には相関関係があることがハッキリとわかります。
全ての筋肉が呼吸と関係があるのです。
それで、動きを分解してみると息と体の使い方には法則があることを発見するのです。
その一つが腰時計回りです。
私達は主体の周りを回っているのです。
全ての運動が合目的的関係により成り立っているのです。
その軌道から外れた時、体の不調として現れるのです。
それで、首が時計回りに回らない時は息が吐けないときであり、反時計回りに回らない時は息が吸えないときなのです。
それで、吐けない時は吐ける筋肉を助けてあげます。吸えない時は吸える筋肉を助けてあげます。
すると体はそれに答えてくれるのです。
体はその如くに応えてくれるのです。
体も主体の周りを回りたいのです。
息という観点から施術を考えていくと、吸気の時はエネルギーを主体から頂いているのです。
主体から見た時、聖書にあるように命の息をその鼻に吹き入れられた。のです。
主体の代身者として私がたつとき、右手は伸びる手になります。伸びる手で息を届けるのです。
その時、私は息を吸っているのです。
それに自分の息をのせて届けるのが治療の手ではなかとおもっています。
主体 対象(主体)対象の関係において考えてみると自身の力ではどうにもこうにもならないと考えます。
命の息を届ける構造を考えると伸びる手の時は吸気でありますし、受け手は呼気であることを感じます。
施術という位置をもっと深く理解できたらと思います。
体と息の構造をもっと深く理解できたらと思います。
心情 愛 生命 血統
施術は私たちの主体である神様を深く理解するところから始まると思います。
2018/3/23 渡り鳥を見た朝