右手と共に

右手の役割を広範囲にわたりお伝えしたいと思っています。

心情整体

創世記第三章21節 主なる神は人とその妻のために皮の着物を造って、彼らに着せられた。


これは、人間始祖のアダムとエバがエデンの園を追い出される直前の出来事です。親なる神様の心を感じます。戒めを守らず、こうするしかなかった時もこのようなことをされています。



神の心情とは
 神の属性の中で一番の核心になっているのが心情である。心情は喜びを得ようとする情的な衝動力であるが、真の喜びを得ようとする情的な衝動であるが、真の喜びは愛することによって得られる。ゆえに喜ぼうとする情的な衝動は、愛そうとする衝動と一体となっている。したがって心情とは「愛を通じて喜びを得ようとする情的な衝動」である。神の心情は抑えることのできない衝動である。内から湧き上がる抑えられない情的な力であり願望である。したがって神にとって愛する対象が絶対的に必要であった。それで神は人間と万物を創造されたのである。すなわち神の愛の対象として人間を創造されたのであり、また人間を喜ばせるために、人間の対象として万物を造られたのである。
 喜びは対象を愛するときに生ずるが、対象が主体に似ているときに、主体はより一層、喜びを感ずるのである。それゆえ、神は愛の対象として、御自身をかたどって人間を造られたのであり、また、人間を喜ばせるために、人間の対象として、人間をかたどって万物を造られたのである。


心情と愛
 心情と愛はいかなる関係にあるのだろうか。どちらも知、情、意の根底にあるが、心情が喜びを得ようとする情的な衝動力であるのに対して、愛は主体と対象を結ぶ情的な力である。心情の衝動を動機として情的な力が、主体から対象に向かって(あるいは対象から主体に向かって)流れてゆく。そのときの情的な力がすなわち愛である。したがって心情は愛の源泉であり、愛の出発点である。


人間をどう理解するか(人間の解明は病気の解明)・・・心情的存在である

 心情は愛を通じて喜びを得ようとする情的な衝動であって、愛の源泉であり、神性の核心でもある。したがって人間においても、その本性の最も核心となっているのが心情であって、人間は心情的存在である。
 人間が神の心情を相続するようになれば、われわれは全ての人や万物を愛したくなる。愛さなければかえって心が苦しくなるのである。堕落人間は、人を愛することを難しく感じるが、神の心情と一致すれば生活そのものが愛となる。また愛があれば持てる者は持たざる者に与えざるをえない。したがって貧富の差や搾取などは、自然に消滅するのである。これが愛の平準化作用である。このように人間が心情的存在であるということは愛の生活を行うということである。したがって人間は愛的人間であるということになる。心情は人格の核心である。したがって人間が心情的存在であるということは人格者になるということである。それは、心情を中心として生心と肉心が円満な授受作用を行う事を意味し、さらに心情を中心として知、情、意の機能が平均的に発達していることを意味する。
 堕落した人間において、生心の機能が弱く、肉心が生心を主管している場合が多い。また、例えば、理性が非常に発達していても情的に未熟であったり善を行なおうとする意志力が乏しかったりする。しかし、人間が神の心情を相続して心情的存在となれば知、情、意は平均的に発達し、また生心が肉心を主管しながら生心と肉心は円満な授受作用を行うようになるのである。心情はまた知、情、意の機能を刺激する原動力であり、真美善の価値の基盤である。すなわち知は認識する能力であって「真」の価値を追求し、情は喜怒哀楽を感じる能力であって「美」の価値を追求し、意は決意する能力であって「善」の価値を追求するのであるが、これらは全て本来、心情を動機としてなされるのである。知的活動によって心理を追求すればその成果は科学、哲学等の学問となる。情的活動によって美を追求すれば、その成果は芸術となる。意的活動によって善を追求すれば、その成果は道徳、倫理などとなる。政治、経済、法律、言論、スポーツ等もみな知情意の活動の成果である。そしてこのような知情意の活動の成果の総合がまさに文化なのである。

                                 頭翼思想より


心情を中心とした治療を行いたいと思い心情整体と名付けました。人の息遣いは生き方であり心情の反映であります。従いまして息の構造を理解して初めて正しい治療を行うことができるのではないかと考えております。心情の反映は横隔膜にでるのです。そしてこの横隔膜は下丹田と上丹田の動きの調和のなかにあるものと感じております。
 心情から誘発される息により、人は前進しております。前に進むことができます。呼気により丹田から息を天に吐くと仙骨(膻中)を中心として進むのです。縦軸の息となります。そして吸うときは足があがるのです。動くという字を分解すると重と力です。重力が人の体を動かすそのような息の仕組みがあるのです。私は以前重力とは何かなと考えたことがあります。それは、『神様が愛しているよ』と私を抱き寄せて、引き寄せているそのような力ではないかと悟りました。この重力をそのまま相手に伝えることが神様の心情を伝えることになるのではないかと考えたのです。余計な自分から出てくる力を一切排除してただ重力だけを伝えるそう思い、今までやってきました。
自分から出てくる力をなくすことは自身の癖直しであり、一つの悟りであるとおもいます。ははん、こうなっているのかと悟る時その動きができるものと感じております。まさに日常生活の全ての行動で修練できる内容です。難しくもあり、体との対話深くは心との対話であると感じております。

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