右手と共に

右手の役割を広範囲にわたりお伝えしたいと思っています。

使徒行伝三章のペテロ 聖霊について考える

生まれながらに足のきかない男がペテロとヨハネに施しを受ける場面が描写されています。
そして、ペテロはこういいました。


3:4「わたしたちを見なさい」


関係性を持つためにわたしを見なさいといったのでしょうか。


 3:6ペテロが言った、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。 3:7こう言って彼の右手を取って起してやると、足と、くるぶしとが、立ちどころに強くなって、 3:8踊りあがって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら、彼らと共に宮にはいって行った。


ペテロが言った「わたしにあるもの 」とは何なのでしょうか?


わたしにあるものは、12節で自分の力や信心ではないといっています。


 3:12ペテロはこれを見て、人々にむかって言った、「イスラエルの人たちよ、なぜこの事を不思議に思うのか。また、わたしたちが自分の力や信心で、あの人を歩かせたかのように、なぜわたしたちを見つめているのか


 3:15いのちの君を殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたしたちは、その事の証人である。 3:16そして、イエスの名が、それを信じる信仰のゆえに、あなたがたのいま見て知っているこの人を、強くしたのであり、イエスによる信仰が、彼をあなたがた一同の前で、このとおり完全にいやしたのである。


イエスによる信仰が、完全にいやした・・・


イエスによる信仰とはなんでしょうか?


ペテロが言った「わたしにあるもの」とは「イエスによる信仰」なのでしょうか。


イエスキリストは外的には神の体であり、内的には神の子です。十字架と復活


天のお父様から見れば独り子を私たちを救うために十字架の路程を歩まされました。その時の心情は計り知れないし推し量ることもできません。その心情の世界は分かりません。


イエス様は父の願いを知り、喜んで行かれた十字架の道、そして罪(死)
私たちの罪 私の罪(死) に
打ち勝ち蘇られました。


外的には神様の体 つまり霊 キリストの霊が勝利復活した。主の霊が聖霊


天のお父様の愛 イエス様の愛 この摂理が真の愛 真の愛の姿が聖霊 
聖霊とはお父様の実体の愛ではないでしょうか。


聖霊を受け入れるとは、お父様の愛を受け、救いを受け、罪が無くなるということ、
罪が死であれば生きた者になるということではないでしょか。。


黙示録22章にでてくる神の国 新しいエルサレムとは私たちが神の宮となった姿ではと思うのです。神が住まわれる宮 そこには偶像がない。自分を誇る偶像はない。お父様の愛がイエス様の愛が聖霊がやどると思うのです。


ペテロのなかにある「わたしにあるもの」は聖霊 つまりキリストとの関係性
深く深く感じている主との関係性


イエス様による信仰とは「父との関係性からくる真の愛」その実態が復活された主の霊 聖霊 イエス様が蘇った事


そう感じています。

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