動きの中の息の中心
創世記より
主なる神は土のちりで人を造り、命の息をそのその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった。
死人と生きた人の違いは動くことです。
命の息を吹き入れられた人は生きた人になります。その息の方向のままに動くということになります。
これが、人が力を出す、力は命の息にあり、その息の方向 目的 流れのままに動ずるのです。
息を吹き返す。吸気となります。
神様の呼気は人にとっては吸気となります。
神様の呼気のままに動ずるときが力を出すときであり
神様の呼気をもとめるのがエネルギーを蓄えるとき、つまり人にとり吸気となります。
ですから肚の中心にある神様の呼気はある方向と目的をもっています。
この呼気と同調し接点となりうる人体構造上の仕組みが息の構造です。
神様の呼気と連結しその方向と目的とを同じにし、連結する筋もあり、この筋を動かすことが動きの本質でることをしることになりました。
今まで筋と動きの関係を探し求めてきましたが、動きの本質の筋も腹の中にあることを悟らせていただきました。
神様の呼気の中には何が流れているのでしょうか?
『それでは、我々が求めている国とは、どんな国なのでしょうか?その国とその義の本質が何であるかを、皆さんは知らねばなりません。イエス様は地上に来られ、人間が所望とする御国を現すために苦労され、万民を愛し、万民を救援するために犠牲の道を行かれたのでした。ですからイエス様が成そうとされた御国とは「主の愛」が溢れる国であり、奉仕する犠牲の生活が溢れる国であったのです。これは皆さんが霊界を体験してみれば、はっきりと感じられるのです。
それではこのような国を主管される神は、どのうようなお方か?万物に対し、人間に対し、切ない心を抱いて愛を注ぐために気づかうお方なのです。このような神が願う生活がどんなものか。・・・・
今日皆さんは、人間が所望とする御国とは本質的な愛が実現する国、即ち与えるために切なる心を抱く人々が暮らす国であること、また愛の本質は与えるために切なること、という事実を知り、その義と通じる犠牲と奉仕の生活路程を歩まねばなりません』(御国とその義を探し立てようの説教より)
愛の対象として想像された人は神様の愛の対象でした。
与えるために切なること
我が子を見つめる親の心情を感じます。
この心情のままに動じることが動きの本質であることを思います。
そしてなぜ右手が自分自身なのか?そして月に該当するのか?
それでは地球の筋の流れは何なのか?
太陽と地球の対象でありこと、つまり愛の対象であるため右手を月として位置づけてあり、
神様の呼気の代身としての役割が地球に該当する筋の意味であることが解りました。
なんのことかと思わると思いますが、動きの本質を、創造された人として研究してゆくとそのような結論しか導きだせないのです。
神様の呼気のままに動いてない人は痛みを感じます。
そう考えて自身のコリ 痛みと向き合っていくと必ず原因をしることになります。
それで動きを捜してきました。
▢が動きの本質となります。