右手と共に

右手の役割を広範囲にわたりお伝えしたいと思っています。

アメリカでお会いしたサンクの皆様へ 動きの中の息の法則について

土台となるみ言


宇宙の根本は何であり、宇宙は何から始まりましたか。愛から始まったのです。科学者たちは、「宇宙は力でできている」と言います。作用するのを見て、力があると思うのです。力があれば作用をします。それでは、作用が先でしょうか、力が先でしょうか。
男性が男性として成長するときは、愛の力は作用しません。男性として作用しながら成長します。心と体が作用しながらだんだんと成人になっていくのです。そうして女性に会うとき、横的な力が生じるのです。力が現れるには、必ず作用を経なければなりません。力がある前に作用があるというのです。作用はどこから出てくるのでしょうか。主体と対象の関係から出てきます。人も心と体からなっており、すべてのものがペア・システムになっているのです。


この宇宙全体、天の国全体の中心軸は愛です。愛は生命の根本であり、血統の根本です。それは、愛を中心として形成されているので、愛の軸に従って運動します。
運動というのは、ただするのではないのです。運動は、必ず主体と対象を中心として行うので、それぞれの位置で愛を中心として、愛と関係を結んで行動するのです。永遠の愛の実績として存続したいというのが、すべての運動するものの目的になっています。作用というのは、ただするのではありません。



宇宙は存在世界です。それは、誰もがみな認めています。存在するためには力がなければなりません。力が先が、存在が先かということが問題です。力がなければ存在もありません。力は作用がなければ現われません。力が存在する前に必ず作用が必要です。作用しようとすれば、力の前に先行条件として主体と対象が絶対に必要であることを否定できません。主体と対象が授け受けするところから作用が始まり、作用が始まることによって力が存続するのです。


宇宙は、必ず力によって形成されるのですが、力が存在する前に作用があります。電気の力が存在するためには、プラスとマイナスの作用がなければなりません。プラスとマイナスの電気作用を集合すれば力になります。ここに電球をぶら下げておけば、私たちが使用する光に変わるのです。ですから、力が存在する前に作用があり、作用が存在する前に主体と対象があるのです。
神様がこの世界を造るとき、人間のための環境として造りました。環境には必ず主体と対象があります。これは存在の法則です。これが備わなければ、存在できないのです。中性があると言いますが、中性にも相対があります。正午になれば、影が消えるわけではありません。自分自体の中に入っただけです。すべて相対的関係をもっているというのです。


宇宙の形成において力が先か、作用が先かと言うとき、必ず作用が先になります。作用するときは独自的にするのではありません。作用するためには、必ず相関関係にならなければなりません。その相関関係が同じレベルではいけません。「私」が損するだろうというのでは作用しないのです。発展するだろうという立場で主体的に与えても喜ぶことができ、プラスになる環境条件を見つめながら、あたえなければなりません。そのような観点で、主体と対象の関係が形成されるのです。主体とは何でしょうか。先に与えるのです。ですから、主体は責任をもたなければならず、保護しなければなりません。ですから、作用が存在する前に、先に主体と対象の関係を認定しなければならないのです。



全ての被造世界は、ペアの組織体制で連結されています。鉱物世界もそうです。全てのものがプラスとマイナスの作用をするのです。重力をもった地球星の上でも、強い引力関係をもっている磁石は、その引力が地球の重力よりも強いために作用が表面上に現れるだけであって、磁石以外のすべての要素もプラスとマイナスの作用をするのです。すべての運動も、同じようにプラスとマイナスの作用を通して広がるのです。
  ペア・システムの中央には、自ら二つを連結して保護できる中心軸があるのですが、その軸が正に愛の軸です。ですから、鉱物世界の元素も相対基準が合うもの同士は自ら一つになりますが、相反した元素同士では、いくら神様が命令し、またどんな実験室の主人が命令して千年の精魂をこめたとしても一つにならないのです。


与えるとなぜ栄え、与えることによってなぜ大きくなるのでしょうか。それは、神様が宇宙を創造した当時の根本と通じるからです。神様が創造するというのは、受けようとするのではなく、与えることです。与えれば、ひたすら大きくなるのです。全てのものが与える概念に変われば、だんだんと大きくなります。ひたすら受けてばかりいれば、すべてのものが小さくなるのです。なぜ、そのようになっているのでしょうか。神様の創造原則に同伴できるので、宇宙が「私」を協助するのです。宇宙が「私」を協助するからです。


宇宙万物が存在しようとすれば、力がなければなりません。力はただそのままで存在するのではありません。力が存在しようとすれば、継続して作用しなければなりません。作用を続けてこそ力が存続するのですが、作用を続けようとすれば、どのようにしなければなりませんか。一人では作用できません。必ず主体と対象がいなければなりません。これが鉄則です。主体と対象が作用するときは、ただそのまま作用するのではありません。主体と対象の位置より、さらに良くなる場所が発見されるところにおいてのみ、作用するのです。これが原則です。



創造において、直線上では調和するのが大変です。線は二点を連結したものです。直線上においては調和がありません。これは行けば行くほど遠くなるのです。帰ってくることができません。ですから、この世の中、この宇宙の出発は直線ではありません。三点の出発が偉大だというのです。三点を合わせてついていけば、球形が生じます。
直線運動から、どのように円形を回って三点基盤を見つけたのでしょうか。これは、運動する物自体がすることはできません。ここには第三の力が介入したことを認めなければならないので、創造主がいることを公認する論理が形成されます。そして、宇宙創造の起源においては、受ける作用であろうと与える作用であろうと、必ず作用があったはずですが、どのような作用を先にしたのでしょうか。神様が受ける作用をしたのであれば、創造した宇宙がすべて神様にくっついてしまいます。神様しかいないのですから、受けようとばかりしていれば、永遠に存在できないのです。


宇宙の運動はどのように始まるのでしょうか。直線上では運動できません。二点を連結したものが直線なので、直線上では調和は不可能です。三点から創造の調和が始まります。三点から放物線を通して、円形が描かれるのです。三点を通して回れば、連結されます。運動は、押すところから始まったのでしょうか、引くところから始まったのでしょうか。これを解決できなければ、宇宙の根本を解決する道がありません。運動は押すところからです。どちらが簡単でしょうか。押す方が簡単です。引くのは二重の力になるので、理論的に矛盾です。ですから、「私」から投入するのです。


世の中を見れば、すべて回るようになっています。力の作用が直線に伸びていけば、永遠に消耗です。神様が被造世界を創造された第一の原則的目的はどこにあるかというと、直線で進む力を回すためでした。従って、世の中の道理は、回転する道理であり、それと同時に運動する道理なのです。
  皆さんが化学を勉強しようとすれば、物質を研究、分析し、運動して作用するすべての現象を観察することになるのですが、その道理から外れた存在はないことが分かります。その全てが360度を回っているのです。宇宙も回り、社会も回り、「私」の心も回っています。全宇宙の中心である神様の心情を中心として回れる人は、神様が回ればその人も回るでしょう。神様が回る限り、この宇宙も回るでしょう。神様が回れば私たちが回り、万物が回ることになるのです。



広く限りない大宇宙は、一つの公式原理を通して運動します。公式は単位を通して、単位を結束させて成立します。この宇宙は、公式を土台とした形式を通して創建された世界なので、公式にきちんと当てはまるのです。ですから、数学で解けるのです。電気も数学で解くでしょう。数学は公式を活用して解いていくのです。公式は単位がなければなりません。一、二、三という単位を通して出てくるのです。ですから、単位が合わなければならず、公式に合わなければなりません。そうでなければ、正しい答えが出てこないのです。


宇宙は、運動の法則、力の作用の原則によって始まりました。すべてのものは宇宙の拍子に合う天運の法度に合わせていきます。その天運の法度に合わせていくのが何かというと、四位基台の法度です。ですから、私たちは、この四位基台の法度に自分を一致させ、四位基台の法度を擁護しなければなりません。
 しかし、その結果が十分でなければ、不合格者になるのです。言い換えれば、夫婦の間でいくら良く授け受けるとしても、結果的存在である子女がいなければ不幸なのです。なぜなら、宇宙の法度と原則が四位基台を中心として回っているのに、三位基台しかできなければ、永遠に回る四位期台の法度に反することになるからです。そのようになれば、神様と距離が遠くなるので、自然と悲しくなるのです。


共存する宇宙を見つめれば、そこには必ず和合作用と反発作用があります。和合作用はより大きなところに和合しょうとします。皆さんの心も和合しょうとするのですが、より大きなとことに和合しようとします。和合するのに、ただするのではありません。回りながらするのです。二つの小さなものが、互いに好きで合わさろうとすれば、どうなるべきでしょうか。「私」自体が自分を超えて、相対を包むことのできる力があってこそ、一つになるのです。自分を超えて大きな力で抱こうとするものがあってこそ、一つになるのです。自分よりも小さくしようとするところでは、絶対に一つになりません。自分を超えてより大きなものを抱こうとする互いの作用をもてば、それは宇宙力が保護します。それが主体と対象の関係です。


痛みとは何でしょうか。私たちのすべての器官において、バランスを取る、ある一面が破壊されたとき、それを早く更正しなければ、宇宙が「お前は現在、共存原則の基準において不合格者だ」と言いながら追い出すのです。その追い出す力のゆえに痛みを感じるというのです。
それでは、悲しみはなぜ起きるのでしょうか。同じです。「私」自身が平和な境地で体と心が一つになり、環境と一つになって、宇宙のより大きな世界に前進していくのに和合する場に立てば、そこで宇宙が保護してくれるのです。宇宙の全体世界において互いが連結され、共存できる連対的作用圏を形成していれば、互が相応する立場で保護してくれるのですが、そこに相反するときは、必ず宇宙力が追い出すのです。これが悲しみに連結されるのです。


宇宙には、相対理念を備えない存在は、存続することができません。相対理念を備えた人は保護します。必ず保護してくれるのです。ですから、男性を女性が永遠の愛を中心として一つになって生きようとするときは、全宇宙が保護するのです。前後、左右からこれを審判する者はいません。体に授け受けする道があるのですが、病気になるのは、その一つが詰まっているのです。塞がっていれば、宇宙の不合格者です。
 相対理想を備えてこそ保護するのですが、そのようにできなければ、不合格となったその割合に応じて一気に追いやるのです。激しく追いやる作用が痛みとして現われます。押せば痛むでしょう。病気のゆえに痛むのではありません。宇宙力のゆえに痛むのです。「お前が授受作用できず、主体と対象の和合関係を構築しないからだ。お前の体がこの詰まったものを取り除いて和合させなければ、宇宙の廃棄物処理場に入るのだ」と警告するのです。宇宙は和合するものを保護するようになっているのです。



神様は人間の主体です。被造世界全体の主体です。このように、作用の中心となる方を神様と呼ぶのです。今日、科学者たちは、「この宇宙は力でできている」と言います。しかし、力が存在する前に作用があるという事実を知らずにいるのです。主体と対象があって作用があるという事実を知らずにいるので、混乱が生じるのです。


力の公式的な原則を見れば、入ってくる力と、出ていく力は同じでしょうか。力が入ってくる力と作用をしたあとの力が同じということがあるのでしょうか。ここには消耗が起こります。運動をすれば消耗が起こるのです。ですから、入ってくる力と出ていく力が同じということはありえません。作用したあと、力はいつも小さくなるようになっているのです。進化論者は、作用すれば力がもっと大きくなると言います。そのような公式はありません。そのようになれば、この世の中はひっくりかえります。ですから、第二の力が必要なのです。


主体と対象が作用して、現在よりも劣るようになるのなら作用せず、より良くなることを発見すれば作用する、というのが原則になっています。そのように見れば、進化するにおいてもより良くなるという何かの目的をもつことができなければ、発展できません。発展するためには、横的により強い力が加重されなければならないのです。そうでなければ発展できません。その力は、作用することのできる目的と対象がなければ絶対に出てこないのです。



神様が環境を創造したのはなぜでしょうか。そこにすべての万物と植物が暮らすことによって、人間がそれらを吸収して栄養素を満たせるようにするからです。海の魚、山の草木、この全てが人間に栄養素を補給するのです。
次に、病気になったときに使う薬剤を作れるのが万物です。一つも使えないものはありません。一番ぞんざいに扱われているものが、一番良い薬になるのです。毒蛇の毒が、薬の中で最も良い薬だというのです。

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