右手と共に

右手の役割を広範囲にわたりお伝えしたいと思っています。

運動の法則は神様より来た。 原相論より

ヨハネによる福音書には、神の言によって万物が創造されたことが次のように表現されている。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」(ヨハネ一・一~三)
統一思想から見れは、ロゴスを言うとき、それは神の思考、構想、計画を意味し、ロゴスを理法というとき、それは理性と法則を意味する。


上記の内容を理解するとき運動においても法則性が明確にあることを理解できる。
磁気の発生する運動 角運動量保存側においても同じである。
人の運動のこの軌道から外れる者ではない。


下記の内容をご参照されたい。人の動きの法則は神様がどのようなお方か、理解なくして解明できない。なぜなら、人は神に似せて創造されているからである。これからはこの世界をお伝えできれば思います。


 ロゴスと理性と法則の統一体
 理性と法則の統一としてのロゴスによって万物が創造されたために、全ての被造物は理性的要素と法則的要素が統一的に含まれている。従って万物が存在し、運動するとき、必ずこの両者が統一的に作用する。ただし低次元の万物であればあるほど、法則的要素がよろ多く作用し、高次元であればあるほど、理性的要素がより多く作用する。
 最も低次元である鉱物においては、法則的要素だけで理性的要素は全くないようであり、最も高次元である人間においては、理性的要素だけで法則的要素は全くないようであるが、実際には両者共に理性的要素および法則的要素が統一的に作用しているのである。
 したがって万物の存在と運動は、自由性と必然性の統一であり、目的性と機械性と統一である。
すなわち必然性の中に自由性が作用し、機械性の中に目的性が作用するのである。ところで今まで、自由と必然の関係は二律背反の関係にあるように理解されてきた。それはあたかも解放と拘束が正反対の概念であるように、自由と必然も正反対の概念であるように感じられたからである。
 しかし統一思想は、ロゴスの概念に関して、理性と法則を二律背反の関係と見ないで、むしろ統一の関係と見るのである。比喩的に言えば、それは列車がレールの上を走ることと同じである。列車がレールの上を走るということは必ず守らなければならない規則(法則)であって、万一、レールから外れると、列車自体が破壊されるだけでなく、近隣の人々や建物に被害を与えるのである。ゆえに列車は必ずレールの上を走らなくてはならないのである。そのような観点から見て、列車の運行は順法的であり、必然である。しかしいくらレールの上を走るといっても、早く走るか、ゆっくり走るかは機関車(機関士)の自由である。したがって列車の運行は全く必然的なもののように思われるが、実際は自由性と必然性の統一なのである。
 もう一つの例を挙げて説明しよう。自動車の運転手は青信号の時には前進し、赤信号の時には停止するが、これは交通規則として誰もが守らなければならない必然性である。しかし、いったん青信号になったのちには、交通安全に支障のない限り、速度は自由に調整することができる。したがって自動車の運転も自由性と必然性の統一なのである。
 以上、列車の運行や自動車の運転において、自由性と必然性が統一の問題にあることを明らかにしたが、ロゴスにおける理性(自由性)と法則(必然性)も同様に統一の関係にあるのである。
そのように、ロゴスの二性性相としての理性と法則は二律背反ではなくて統一であることを知ることができる。
 ロゴスが理性と法則性の統一であるめに、ロゴスを通じて創造された万物は、大きくは天体から小さくは原子にいたるまで、全て例外なく、理性と法則の統一的存在である。すなわち万物は、すべて理性と法則、自由性と必然性、目的性と機械性の統一によって存在し、運動し、発展しているのである。
 この事実は今日の一部の科学者の見解とも一致している。例えは検流計の付着実験による植物心理の確認(バクスター効果)や、ジャン・シャロンの複素相対論における電子や光子内の記憶と思考のメカニズムの確認、などがそうである。すなわち、植物にも心があり、電子にも思考のメカニズムがあるということは、全ての被造物の中に理性と法則、自由性と必然性が作用しているのである。

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