命の息をその鼻に吹き入れられた。
創世記二章7節
主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。
それで、人は生きた者となった。
命の息が入って生きた者
ヨハネ三・3
イエスは答えて言われた「よくよくあなたに言っておく、だれでも新しく生まれなければ神の国を見ることができない。」
新たに生まれなければ・・・・
それは死んでいるということ
それでは命の息が入ると生きていて
命の息が出ている状態が死んでいると考えられる。
この命の息とは神様の何なのだろうか。
実体み言宣布天宙大会より
皆様、神様は人間をご自身の子女として創造されました。絶対、唯一、不変、永遠の本体であられる夜、昼の神様が御自身の愛を魂として吹き込んで創造した人間始祖が、堕落しなかったならば、神様のような基準まで霊人体も完成し、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の道理を尽くして永生するようになったでしょう。
神様の愛を魂として吹き込んだ
神様の愛が魂
人間は神様の愛によってうまれた。
人間の魂は神様の愛
堕落とは神様の愛を無くしたこと
新生とは新たに生まれるということ
私達が無くしたのは神様の愛を無くしたこと
堕落人間には神様の愛がないといこと
原相論より
神において、喜ぼうとする情的な衝動は、愛そうとする衝動によって支えられている。真の喜びは真の愛を通じなければ得られないからである。したがって、愛そうとする衝動は喜ぼうとする衝動よりも強いのである。愛の衝動は愛さずにはいられない欲望を意味する。そして愛さずにはいられないということは、愛の対象をもたずにはいられないことを意味する。
そのような愛の衝動によって喜ぼうとする衝動が触発される。したがって愛の衝動が一次的なものであり、喜びの衝動は二次的なものである。ゆえに愛は決して喜びの手段ではなく、ただ無条件的は衝動なのである。そして愛の必然的な結果が喜びである。したがって愛と喜びは表裏の関係にあり、喜ぼうとする衝動も実は愛そうとする衝動が表面化してものにすぎない。
ゆえに神の心情は「限りなく愛そうとする情的な衝動」でるとも表現することができる。愛には必ず対象が必要である。特に神の愛はおされられない衝動であるから、その愛の対象が絶対的に必要であった。したがって創造は必然的、不可避的であり、決して偶発的なものではなかった。
神様の愛を魂として吹き込まれた人間
神様との愛の関係を築くはずだった人間
この愛の関係を無くしたことが霊的な死
堕落したアダムとエバは
神様との愛の関係を無くしてしまいました
第二のアダムとして来られたイエス・キリスト
新しく生まれなさいといわれました。
神様の愛を吹き入れるために来られた方がキリストです。
私たちの魂が神様の愛
神様の愛と私の魂は同じ
キリストによらづしては神様との愛の関係を築けない。
イエス様が築くはずの御国はイエス様が結婚して子供をつくり王国をつくるところまでいきませんでした。御国はイエス様の家庭から始まる。
イエス様が語られた福音は神様の国をつくることでした。
黙示録12章は神様の国の始まりを記しています。